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葡萄酒の滴る音   7

「なっ・・・」
絶句したのはロジェであった。朝一番で厨房に入り、昨夜完成したものを早速店主に見てもらおうと思ったのだ。だが、そんな目の前に広がった光景は散々なものだった。
ロジェが昨夜作った試作品の数々はぶちまけられているのだ。完成品に至っては箱ごと潰され原形をとどめていない。解かされ壁を伝うチョコレート。瓶が割られ中身の飛び出たジャム。色々な甘さの混じった匂いで気持ち悪くなりそうなほどである。
とりあえず、この状況を保存して店主にあったことを報告しなければ。
そう判断したロジェは踵を返そうとした。だが、それは一人の少女の言葉によって止められる。
「きゃぁっっ!!なにがあったんですか!!」
思いがけない悲鳴にロジェは瞬時に後ろを振り向いた。
既に身支度整ったキュレがロジェの背後にいたのだ。彼女はその惨劇に驚き目を見開いている。驚きながらも何をやるべきかは分かったようだ。
「わっ私、お父さん呼んできますっ!!」
彼女は自らの父の元へと駆けていった。ぱたぱたぱた、とノリウム床を蹴る音。
その音を聞きながらロジェは一人僅かに眉を寄せた。気が緩んでいたわけでもない。ただ驚いてはいたもののそんな事で不覚を突かれるロジェではないのも自分でも分かっていた。
だが、察せなかった。その声の瞬間まで彼女の気配はなかったのだ。それに。
「・・・・・気のせいか?」
本当に気のせいであろうか。疑った処で確かめる術はなく一人ロジェはため息をついた。

「お前がやったんだろうっ!!」
従業員のほぼ全てが集まった調理場でまず初めに挙げられたのはロジェへの疑いである。店主以外の従業員のほぼ全てはそう思っているらしく目の前で大声を上げる男からちらちらと様子を伺いながら陰口を叩く女。幾らロジェが自分ではないと言っても聞き入れられそうな雰囲気ではなかった。
無理もないといえば無理もないのかもしれない。第一発見者であるのもそうだが、一週間だけ雇われるという条件付での従業員だ。傍から見たらこれ以上疑いやすい人物もいないのかもしれない。
いい加減同じ問いに答えるもの飽きてきた。そう思いながらロジェは何度目かになる否定の言葉を述べようと口を開く。だが、言葉はその前に発された。
「違うのっ!!・・ロジェさんはやってない!・・私、見たのよ」
キュレだった。従業員が来てから押し黙っていた彼女は声を荒げ場を静まり返らせる。彼女はロジェのほうを不安げな顔でちらりと伺った後に話し始めた。
「私ね、昨晩・・彼女が此処にいたことを知ってるの・・」
「おい、誰だよっ!!彼女って!!」
何処かの男が苛立った声を上げる。キュレは顔を伏せる。嫌な予感がロジェにはした。
嫌な予感はじゃらじゃらという金属音と共に声となって訪れる。
「僕はやってないってばぁっ!!こんなもの要らないよぉ!!」
「・・・フィーリ!?」
小脇を男性従業員に抱えられて現われた見慣れた女、もとい男の姿は制服ではなく、簡素なシャツとズボンという抽象的な姿だった。髪は結われておらず動くたびに揺れる。フィーリはまるで囚人のように手枷を嵌められ鎖につながれていた。
「あ、ロー君っ♪見て、これー。僕何もやってないのに何か濡れ衣着せられたー♪」
人々の中からロジェを見つけて楽しそうに笑った後「酷いと思わない?」とフィーリは不満げに呟き講義するかのようにじゃらじゃらと鎖を鳴らした。
「嘘つくんじゃねぇよっ!!」
「フィーリちゃんってそんなことする人だったんだねー」
「ホントー。最悪ー」
「これだから新しい従業員は入れたくなかったんだ」
それは小さな火種から次第に広まる狂気。異様なまでの他人の排除。心変わり。
親しくしていた人々から告げられる罵倒の言葉をフィーリはじっと聞いていた。笑むことせず嘆く事もせず佇んでいた。
「こいつはそんな事をする人間じゃない」
「どうだかっ!!お前の女なんだろ!?責任は取るんだろうなっ!!」
ロジェが異を唱えるも聞く耳を持たず男は失笑する。一人の男は繋がる鎖を自らの元に引き寄せフィーリに絡むようなひげた笑みを浮かべる。
「自分のやった事ぐらい認めろよな?幾ら可愛らしい面してるからって許されると思ったのかぁ?痛い目見たくないならこの場で自白しろっ!!」
脅すかのように凄んだ態度に普通の女なら、いや気の弱い男でも泣き出したかもしれない。しかし、女子でも女でも、そして気が弱い男でもないフィーリはため息をついた。
「やってないって言ってるのにぃ・・これだから嫌だなぁ」
「・・・てめぇ!!」
馬鹿みたいと呟いたのまでがその男に伝わったのか。コック帽の男はフィーリを掴んだのと逆の手を振り上げる。暴力を振るおうというのが気配で分かった。その場の空気が一気に冷えるのが感じられる。鈍い空気を切る音。衝撃を覚悟するも痛みがフィーリを襲うことはなかった。瞬時に身を翻したロジェが男の拳を受け止めたのだ。
「もう一度言う。こいつはそんな事をする人間じゃない」
「・・くっ」
男は拳を引こうとするがあまりにも強く受け止められているためその腕を引く事もできず。
ロジェの眼光は今までにない凄みがあった。怒りを、殺気を凝縮したような表情。
「疑いたいのなら勝手に疑えばいい。だが、決め付け暴力を振るうのは間違っている」
ロジェ以外言葉を発するものはいなかった。否、彼の後ろで彼を案ずるようにフィーリが僅かにその名を呟いた以外誰も何も話さない。
驚いたような憎らしいよう歪んだ感情の支配。その支配からこの時ばかりは外れていた気もする。腕を下ろしたロジェはその拳を解放する。ずれた帽子を直しながら彼は言った。
「責任は俺が取る。だから今日一日、俺に時間をくれ」

by vrougev | 2007-02-08 23:35 | キセツモノ