人気ブログランキング | 話題のタグを見る

葡萄酒の滴る音   10

それは閃光による衝撃。死ぬような事ではない。多少背中を押される位の感覚である。だが、フィーリはロジェに駆け寄る。まるで取り返しが付かない事をしてしまったかのようにその顔を真っ青に染め上げて。
「ロー君、大丈夫っ!!何もない!?」
ロジェは振り返る。その手はまだ繋がれたままだったが彼は抱え込むかのような姿勢。安堵したかのような笑みにフィーリは彼が飛び出てきた理由を知る。
「・・大丈夫だ。よかった・・」
「あ・・・・」
ロジェの腕の内には先程熱心に作った試作品のチョコレートが抱かれていた。薄紅の箱、結ばれた深紅のリボン。フィーリはそれが此処に在る事をすっかり忘れて戦っていたため巻き添えを食らうところだったのだ。
一歩間違えば、彼の努力を無駄にするところである。実際ロジェが飛び込んで来なければ今頃粉々だろう。
「ごめん、ロー君・・」
素直に頭を下げる。しゅんと縮こまったフィーリにロジェは一つため息を吐く。いつものものなのか、それとも愛想を尽かしたのか。見分けが付かない。
「ロー君・・」
更に顔色を伺うようにロジェの名を呼ぶ。
「フィーリ、口を開けろ」
「え、今この場で?」
何をと呟いたフィーリの口の中に否応なしにそれは投げ入れられた。そのまま口を閉じてしまったため奥歯でがりと噛み砕いてしまう。じんわりと広がった甘味と苦味、そしてロジェの手から滑り落ちたリボンにフィーリは驚く。
「これ・・」
「食べて静かにしてろ」
そう言ってロジェは同様にキュレの口にもチョコレートを投げ入れる。目を見開いたまま硬直している彼女に、いや彼女に憑いた嫉妬心とやらに言った。
「何に執着し、誰にどう思うかなんて人の勝手だ。愛情も憎悪も変わらんからな。だが、憎み呪う位ならば見返せ。それで振り向かせればいい」
失笑にも苦笑にも似た。見開かれていた瞳は形を変え、きょとんとしたような表情をとる。ロジェは真っ直ぐ眼を見た。キュレではない、後ろの感情に。
「大丈夫だ、分かるようになる。だからこの娘から離れてやれ」
微笑。
つられるように彼女も笑った。そしてそっと少女は目を閉じ、倒れる。
「ロー君・・憑き物落としも出来るの?」
万能だなぁ、と呟くフィーリにロジェは器用にナイフで手錠をこじ開けながら言った。
「知らん」
だって本当に何も知らないのだ。ただ苦しんでいるのは分かっていたから救いたかった。
がしゃん、と手枷の外れ、落ちる。これで自由だ。
くすくすと魔術師は笑っていた。外からは人々の声。あれだけ物が壊れる音がしたのだ。人がやってこないはずもない。手元にある荷物を持ち上げフィーリは言った。
「さて、行こうかっ♪」
「あぁ」
何事も無かったかのように同意したロジェは自らもまた荷物を手に取る。
その時、ロジェはまだ自分のした事に気がついていなかった。これは逃亡劇の序章。
フィーリは壁に向かって荷物を持っているのとは逆方向の手を翳した。
「!?」
次の瞬間、爆風がロジェを襲った。熱くて激しい風の渦。咄嗟に顔を庇い、止んだ後を見て言葉を失う。目の前には空虚。いや厨房から店の外へと通じるように突き破られた壁の数々。あっけに取られるロジェにフィーリはその腕に抱きつく。
「さ、ロー君いこぉっ♪」
「えへへー♪」と僅かに赤らんだ顔を見てロジェは自分のした事実に気がついた。
あのチョコレートの中には酒が含まれていたのだ。数分前のフィーリのように真っ青になったロジェは抱きついて羅列の回らない言葉を話すフィーリを抱き上げてそのまま店の外へと走る。きゃっきゃとはしゃぐフィーリは尋ねる。
「お姫様抱っこー♪如何したのぉ?ローくぅんー♪」
腕に抱きかかえて、俺は何やってるんだ。この状況はどうみても馬鹿にしか見えない。
最早やけくそにロジェは答えた。
「逃げるぞっ」
元気のいいフィーリの返事は雲晴れた雪景色の中、響き渡る。

目覚めて直ぐ、キュレは彼らがもういないことに気がついた。厨房の惨状の中、キュレは一人倒れていたらしい。父は心配したし、同僚達も優しく接してくれた。
恵まれている。けれど、この胸に空いた隙間はなんだろうか。一つの何かが終わったような寂しさ。少し考えれば分かる事であった。きっとこれが埋まる事が成長なのだろう。
キュレはそう思い、彼らの残した最後のチョコレートを口に含んだ。
優しいミルクチョコレートの甘さから始まる。風味良い洋酒のソース。そして、割った中から現われる大人の苦味と爽やかさ。果実酒を使った内包物はまるで滴るように、染み渡るように身体の中へ吸い込まれていくようだ。
きっとこれが彼なのだろう。きっとこれが大人と子供の違いなのだろう。
これを残してくれた。ならば私にやる事はひとつなのかもしれない。
「お父さん。お願いがあるの・・・」
大人になったら振り向いてもらえるかしら。

それから一年後、ある街で一つのチョコレートが大ヒットを記録する。
甘いミルクチョコレート、それに葡萄酒をふんだんに使った一粒の宝石。
それを手がけたのは一人の見習い女パティシエだった。彼女は言う。
「これは私が大人になろうと決意した作品なんです」と。
チョコレートの名は『Fell in roze』。本当の意味を知るものはいない。

                                      葡萄酒の滴る音   Fin

by vrougev | 2007-02-14 01:38 | キセツモノ